- 作者: 東山紘久
- 出版社/メーカー: 創元社
- 発売日: 1982/01/20
- メディア: 単行本
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この日記でも何冊か紹介している東山さんの本だからということで読んでみた。遊戯療法=プレイセラピーを扱った、これまで読んだ本の中で一番東山さんが専門家らしく感じた本でした。逆に言えばちょっと読み方が難しかった。
読みながら何とも言えぬ不快感と恐怖感の入り交じった気持ちの悪い思いを味わった。自由奔放に振る舞う相手に、基本的にはすべて従いながらメッセージを読み取り誘導するセラピスト。何故そこまで我慢して相手に合わせることができるのか、(おそらくやることはないが)我が身をセラピストに重ね、辛抱を要求される重責に胸が締め付けられる思いがした。
本書は小学一年の女の子への28回に亘るセラピーの内容と、各回のセラピーへの分析を綴ったもの。東山さんはスーパーバイザとしての立場であり、セラピー自体は若いお弟子さん(?)が行ったものだ。各回のセラピストの臨場感溢れる対応と、それに対する東山さんの分析が生々しく、前段に書いた感情を私は得たのだった。
この思いは第3章での東山さんの言葉により、きわめて「正常な感覚」のひとつであることがわかり安心した。
いわく、「セラピストになるには、感受性が必要である。これは狂いの世界に対する感受性であるから、感受性を持ち、半分狂って半分は狂わないでおれることが大切になる。」 「(前略)われわれは、普通このような世界から遠ざかっていたいと思っている。非現実世界に近づくことは、どれだけ我々自信が狂いの世界に近づくか、あるいは入り込むかということになるからである。」と。
ここまで極めることは難しくても、自分にとって新しい何らかの考え方の糸口になったような気がした。
圧巻は途中の第16セッション。セラピストが「古い住まい」から「新しい住まい」への移動を、やや強い演出で促すところ。 機を見てクライアントの気持ちを誘導するために踏み込んだシーンは、専門家ならではなのだろうと感動した。
最後に、本書冒頭で紹介されていた「牛飼い」のエピソードを引用。これができるようになったら人間としても素晴らしいのだろうなぁと思えるエピソードだと感じた。(括弧内は私の要約)
ある人から、牛の訓練をする名人の話を聞いたことがある。(暴れたりまっすぐ耕さない牛を)訓練士に一週間程預けて訓練してもらうのである。(中略)どんなひねくれ牛でも一週間あれば治すそうである。(中略)
彼は牛を連れて泥田に行き、牛に一言二言、声をかけて、そのまま泥田へ話してやるのである。牛ははじめとまどいを感じているが、そのうちに、田んぼを走り回ったり、ころがったり、あぜの草を喰ったり、好き放題に遊んでいる。名人はそれを、キセルをくわえながら見ている。長いときは三日も四日も見ているのである。名人はただ見ているだけである。
(そのうち牛が気にしだしたタイミングで名人は)牛にすきをつける。牛は、やはりコレが人間の本性かとばかりに、すきを引いて、あちこち走り回る。名人は、牛の後を牛の行く通りについていく。牛はこれえもか、これでもかというように縦横無尽に走り回る。名人はそれでも牛の行く通りついて走る。
数時間たつと、牛は立ち止まって、不思議そうな顔をするそうである。名人がにっこりして、「さあ、まっすぐ、まっすぐ」と言うと、牛もにっこりして、まっすぐにすき始める。
せっかちな私は、期待する人が伸び悩んでいるときにこの「待つ」ができない。待つ以外に絶対に「その時」を少しでも早く到来させる方法があると信じているので、待てない。でも「その気」になるために本人の思う存分遠回りをする大切さというものも、このエピソードからは感じた。
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